久しぶりの更新です。気付いたら5月は1回も更新出来ませんでした。

今回はビシュケクのセンターの都市計画について書こうと思います。

本屋でガイドブックを購入しましたので、そちらを元に書いていきます。

 

もともとキルギス人はチュイ渓谷(Chui Valley)に古代より住んでいたようですが、それ以降の歴史を書き出すと長くなりますのでここでは省略します。

Wiki

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%93%E3%82%B7%E3%83%A5%E3%82%B1%E3%82%AF

1862年にロシアに占領され、ピシュぺク(Pishpek)と呼ばれました

1864年にロシアの軍隊の郵便局が建てられ、その周辺にロシアやウクライナからの移住者が住み始めます。

1878年よりピシュケク(Pishpek)は、キルギスにおいて最初のヨーロッパと同じようなタイプの都市となり始めます。

都市計画は、ロシア軍隊の地形学者によって草案が作られ、1871年に承認されました。

それにより直行グリッドの道路が整備され、四方に拡張されていきます。

1898年に市の管理者イリヤ・テレンティエフによって、製油工場、皮の工場、公共建築、752の家が建設されました。1913年までにPishpekは2万人を超える人口になったようです。その間学校、Madrasahs(イスラム地区の学校)、モスク、教会、病院が建設されたようです。

人口構成は主にロシア人で、ドゥンガン人、タタール人、ウズベク人でした。

A.M. Fetisov、サンクトペテルブルグの植物学者、は1879年にPishpekを訪れ、寂れて沼地と化した場所であったPishpekを、巨大な緑あふれた場所にしようと考えました。Oak Parkに彼は滞在し、作庭家の学校を設立しました。

1894年に生徒とともにオークの木を植栽し始め、1902年に公共の公園をレイアウトしました。現在それはErkindik Avenueとなっています。

化学者たちも農場を作り、Pishpekの公園やその他の場所のために8万もの様々な種類の苗木を栽培し、現在その場所はPanfilov Parkとなっています。

Frunze Museumの中にその当時の家が保存されているようです。

Frunze MuseumはM. V. Frunzeのための博物館ですが、彼の死後、ピシュペクはFrunzeという名前になり、1991年の独立までその名目が使われていました。独立の際に現在のビシュケクという名前になったようです。

ここから各広場について書いていきます。

①Ala-Too Square

Squareと言うのは広場で(代表的なのがモスクワのRed Square、赤の広場)で、旧ソ連圏内では基本的にこの言葉が用いられます。

ここはBishkekの中心地であり、政府機関の建物が数多くあります。

The Government House、The State flagpole、歴史博物館、The house of Friendshipなどがあります。ソビエト時代はこの広場はデモストレーションと軍隊のパレードのためのものでしたが、独立以後現在では様々なイベントや催し物が行われます。

  The Government House

The friendship Houseには本屋がありまして、おそらくBishkekでは一番大きく、そこにはちょっとした伝統的なもの(衣装や食器、工作物、楽器)の展示室があります。

The Friendship houseは、1926年にロシア人の建築家A. P. Zenkovによってつくられ、Bishkekにてはじめての公共建築となります。彼はアジア建築の特性をここに取り入れようと模索したようです。

 

②The old Square

Ala-Too Squareの北側(歴史博物館の裏側)に位置し、以前はここが中心でRed Squareと呼ばれていました。

以前 Ala-Too Square 建立されていたレーニン像は、ここ博物館の裏側に移されています。

 

こことParliament Building(1968年まで政府の建物)があり、中央アジアのアメリカン大学が入っています。この近くにFedorvich TerentievというPishpekの初めてのチーフで1895年から1914年までその職を勤めていた人のコテージがあります。

彼によって多くの発展と都市の緑化、中学校の設立が進められました。

Jogorku Kenech(Parliament Building)の後ろ側にFrunze Museumがあり、その反対側にThe kirgyz State Drama Theater(1970年)が位置し、その西側にPanfilof Parkがあります。

 

(左)Frunze Museum (右)The kirgyz State Drama Theater

入り口のゲートの近くにソビエトの偉大なパンフィロフ将校の銅像(Olga Manuilova作)が建っています。

先にも述べたようにPanfilov Parkは、19世紀にFetisovによってつくられた市の公園のところに作られています。

この公園は1939年にオープンし、公園内の主要な歩道は上から見ると五芒星の形になるよう計画され、現在もその形を保持しています。

ここには数多くの遊具があり、一種の遊園地のようです。

 

③The Oak Park

先にも述べたようにOak ParkはA. M. Fetisovとその生徒たちと支援者たちによって作られ、現在はErkindik Avenueと繋がっています。

暑い季節になると数多くの市民が涼みにここを訪れます。多くの噴水、モニュメント、The Russian Academic Drama theater(1972年)、「Under Open Sky」と名付けられた屋外に数多くの彫刻が配置されています。近くでは屋外で絵画の展示販売が行われています。

 

 

④The Square of Art

Oak ParkをThe Russian Academic Drama theaterを通って東側に抜けると、The Kyrgyz State Theater of opera and Ballet(1955年)、Library for Children and Young Stars(1962年)、 The museum of Fine Arts(1974年)、によって囲まれたThe Square of Artがあります。

そこにはキルギスの代表的な歌い手、Toktogul Statylganov(1864-193バレリーナのB. Bei. Shenalieva(1926-1973)、詩人のA. Tokombaev(1904-1988) の銅像が建てられています。

 

(左) The museum of Fine Arts  (右)  Library for Children and Young Stars

Opera Theaterの裏側には、Pobeda(Victory) Squareがあり、結婚式の祭、数多くの人が訪れます。

このモニュメントの形はユルタをイメージしたものです。

この周辺に、National State Library(おそらく1976年)、Circus((おそらく1976年)、現在は使われていないカジノ、Wedding Palace、Zum(Central department store 1974年)、Central post Office、Kyrgyz Telecomがあります。

 

⑤The City Square

こちらはAla-Too Squareから少し離れたところにありますが(とはいっても歩いて20分程度)、the City Administration Building、Kyrgyzstan Internatonal University、Philharmonic Societyがあります。

Philharmonyの広場にはキリギスの代表的な詩人Manasのモニュメントがあります。ここを北に真っ直ぐに噴水のある並木道を抜けると、kyrgyz National Universityがあります。

ちなみにこの並木道のすぐ近くにあのモニュメントもあります。

⑥Rabochiy Gorodok(workers’ town)

1920年代につくられたこの地区は、イギリスの建築家E. Howardの「Garden town」のコンセプトを元に作られました。

円形の中心に緑地公園が設けられています。

1925年にソビエトによって招待されたCzechoslovak Communistたちによって作られ、ここに服飾工場、革工場、機械、多くの会社を作ったようですが、残念ながら私はここを訪れてはいません。

 

ガイドブックを元にざっと書いてきましたが、ビシュケクのセンター自体さほど大きくないので一日もあれば全部みて回れます。

Ala-too Squareを中心に文化ゾーンや緑豊かな公園が整備され、お互いに連結し、非常に魅力的なセンターとなっています。夏場はOak ParkやPanfilov Park、Ala-Too Squareには数多くの市民が集い、木陰にて休息を取っています。海外からの観光客も見かけます。

昨年の夏、Ala-Too Squareを訪れた際、子供たちが噴水の中で戯れている姿を見たとき、一種の幸福感のようなものを感じました。日本ではまず有り得なかった光景です。私と一緒にいた老人も何かしら文化的に高いものを感じると言っていました。

勿論ソビエト時代に社会主義国家であったからこそ成立しえたのでしょうが、アルマティとは全く異なります。

都市とは市民のためのものといったような概念が強く感じられました(そういった概念の元に作られたかは知りませんが)。

道路と歩道の関係においても、その間に緑地帯を設け歩車分離を明確に行っています。

アルマティでは、車道、歩道、緑地、建物といった順になっていて(スニップでred lineといって車道と建物間に法律で定められた距離をとらないといけない)、それに対しビシュケクでは、道路、緑地、歩道、建物といった順になっています。

昔ながらの2層の建物が多いですが、その順によって歩行者と建物の距離が近づき、アルマティと比較して賑わいがより生まれています。

ビシュケクは小さな都市ですが、それでもセンターは夏場は緑あふれた賑わいを生み出しています。

 

 

次回は National State Library 、Sport Palace(体育館)、大学、モニュメント、その他の公共施設について書こうと思います。

それぞれ1回ずつになります。アルマティの建築についても早く書きたいのですが、ビシュケクの建築について書いた後にまた始めようと思います。

ビシュケクで撮った写真の建物は全部紹介する予定です。

広告