黒川紀章建築へのちょっとした私的な論考です。

さて、ロシアワールドカップが始まりました。日本代表チームは決勝トーナメントに進みましたね。ベルギーに敗れ残念な結果でしたが非常に素晴らしい試合内容でした。

このロシアワールドカップのサンクトペテルブルクのスタジアムは黒川紀章が設計したものです。

https://en.wikipedia.org/wiki/Krestovsky_Stadium

A(写真はネットより)

黒川事務所在籍時、私はちょっとだけこのコンペに関わっていたのですが、当時なぜこの吊り構造のポールを内側に傾けているのだろうと案を見ながら考えていました。構造的に考えればポールを外側に開くのが合理的なわけです。

もちろん案の下地には黒川が以前設計した豊田市スタジアムがあるのですが、敷地はクレストフスキー島という人口アイランド上にあり(以前キーロフ競技場というのが存在していた。http://www.ipetersburg.ru/stadion-na-krestovskom-ostrove/)、

海に面していることから帆船のマストをイメージして再度吊り構造を採用したと思うのですが、内側に傾けた構造の案を見ながら、ロシア正教の教会を考慮しているのかなと私は思っていました。

2009年に書いた「なぜ、中央アジアの建築のブログを書こうと思ったのか」にも書いたのですが、以前「黒川紀章 – ロシア・建築と初恋に燃えた日々」という動画を見ました。

2007年に再放送されたもので、元は2001年にNHKにて放送された映像です。

黒川は1958年ロシアのレニングラードで開かれた第5回世界権建築学生会議に議長として出席し、そこでソビエトの建築家たちと交流したのですが、約40年ぶりにサンクトペテルブルグ(旧レニングラード)を再び訪れ以前出会った建築家たちと交流を交わすといった映像です。

その映像にて黒川はモスクワのシューセフ記念国立建築博物館にて、イワン・レオニドフの重工業省コンペ案(1934年)のオリジナルのドローイングを目の当たりにします。

そこで黒川は「クレムリンを全く無視して考えていたのじゃないかと思っていたけど、やっぱり相当やはりクレムリンとの調和を考えていたんですねぇ」と発言しています。

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参照;http://www.alyoshin.ru/Files/publika/khan_archi/khan_archi_1_119.html

この映像を見てピンときました。スタジアムの構造の黒川のイメージはここから来ているのではないかと。

レオニドフがデザインコンテクストとしてクレムリンに調和させたように、おそらく黒川はこれを参照し、構造体を内側に傾かせることによってサンクトペテルブルクのロシア正教との親和性を図ろうとしたのではないかと思います。

黒川は以前からロシア構成主義とイタリア未来派からの影響を自ら公言しています。

しかしながら具体的にどのような影響を受けたのかは分かりません。

私が黒川の建築とロシア構成主義との関連性について考えるようになったのは、以前も書きましたように

メタボリズム 一九六〇年代-日本の建築アヴァンギャルド」(八束はじめ+吉松秀樹著、1997年出版)の「プレ・メタボリズムとポスト・メタボリズム」の項において、

「METABOLISM/1960」にて発表された黒川紀章の「農村都市計画」(1960)と、レオニドフの門下生であったパブロフ兄弟の「レニングラード学生コミューンのプロジェクト」(1930)の類似性を指摘しています。

八束氏は形態における類似性だけでなくコンセプトも反都市的な計画と言う事での類似性を述べています。ただ直接的な影響関係があったとは思えないと記しています。

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参照;http://www.alyoshin.ru/Files/publika/khan_archi/khan_archi_2_076.html

そこで思い出すのが先のレニングラードでの世界学生会議への参加です。

新建築別冊の黒川紀章特集(1986年出版)でのインタビュー記事では、世界建築学生会議の出席で約1か月ほどソ連に滞在したとインタビューで述べています。またそれとは別にモスクワでUIA大会も開かれていたようで各国のレポートを翻訳したようです。

事実黒川はソビエトの工場で生産されるコンクリートパネル住宅に大きな影響を受け、「プレファブ建築」を1960年に出版しています。この事はメディアでもオフィシャルに語っています。

ここからは私の単なる憶測です。

おそらく黒川はこのソビエト滞在時に当時日本ではほとんど知られていなかった幾つかの構成主義の建築作品を見たんではないかと。

八束氏は他にもヴフテイン(Vkhutein) の学生であったニコライ・ソロコフの「湯治場ホテル計画」(1928年)やゲオルギー・クルチコフの「空中都市計画」(1928年)の小屋・カプセル的なユニットは黒川の「ホモ・モーベンス」という概念を取り込んでいた黒川のプロジェクトにあってもよさそうなものだと述べています。

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ニコライ・ソロコフの「湯治場ホテル計画」(1928年)

参照;http://www.alyoshin.ru/Files/publika/khan_archi/khan_archi_1_096.html

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クリチコフの「空中都市計画」(1928年)

参照;http://www.alyoshin.ru/Files/publika/khan_archi/khan_archi_2_032.html

「METABOLISM/1960」の後に出版予定されていた「METABOLISM/1965」において黒川が提唱した「メタモルフォーゼ計画1964」(1969年に出版された「未来を創造する建築 黒川紀章」の本では1965でなく1964と書かれている)の地面から生えてくるつくしのように上方に伸びていくオブジェクト群は上部に丸みを帯びており、後にそのコンセプトはSpazio Brera Ginza(2005年)によって実現されたと黒川は述べています。

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ヴフテイン(Vkhutein) にてラドフスキーの生徒であったアンドレイ・ブニン北方の地域においてプロジェクトを行い、中央アジアのタシケント出身のビクトル・カルミコフはキルギスでプロジェクトを行っています。

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パラボラ型住居計画(1930年)

参照;http://www.alyoshin.ru/Files/publika/khan_archi/khan_archi_2_073.html

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キルギスタンの遊牧民の定住のための住居計画。

参照;http://www.alyoshin.ru/Files/publika/khan_archi/khan_archi_1_116.html

「メタモルフォーゼ計画1964」先が細丸まったオブジェクト群は若干変形されていますがカルミコフやブ人のプロジェクトを想起させます。

また黒川のプロジェクトの中でも最も明快で圧倒的な造形力を誇る「東京計画1961−Helix計画」のDNAモデルを模した二重螺旋構造は、明らかにウラジミール・タトリンの第三インターナショナル記念塔(1919-1920)の影響が見て取れます。

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参照;http://www.alyoshin.ru/Files/publika/khan_archi/khan_archi_2_032.html

黒川事務所在籍時、カザフスタンのアルマティの集合住宅プロジェクト、「Sakura Home」を担当していたのですが、黒川が最初にデザインしたのが、5棟が細長く直線的に折れ曲がっていくデザインでした。

1969年の 鴻巣ニュータウンのプロジェクトの建物に若干変化をつけたデザインでしたが、

施主からこの細長い建物群はソビエト建築のようだと言われ拒否されてしまいます。そこで黒川は当時国立新美術館でも行ったように各住居ユニット毎に曲面を適用しました。

それはまるで団子と言いますか、細胞セル状の形態が連なっていくようなデザインでした。

当時線上に伸びていくデザインというのは大谷幸男や磯崎新も既に行っていましたし(磯崎は構成主義とりわけカジミール・マレーヴィチのアルキテクトン、エル・リシツキーやコンスタンチン・メーリニコフの影響を露わにしている)、黒川独特のものではないですが、この構成主義的なものからメタボリズム的な表現への変換・転向は印象的でした。

「黒川の建築家の能力をメタボリズムのメンバーに知らしめたのは「K邸計画案」の類い稀なる造形力であったという話がある。」と八束氏の「メタボリズム 一九六〇年代-日本の建築アヴァンギャルドに述べられていますが、黒川には独特の造形センスがあったと思います。

黒川の出目として父親がもともと建築家であり、先の八束氏の本にもありますように黒川自身指摘しているようにモニュメンタル志向が見て取れます。

レム・コールハウスとハンス・ウルリッヒ・オブリストによって書かれた「Project in Japan メタボリズムは語る」(2012)でのインタビューにて、コールハースは黒川に「未来派やロシア・アヴァンギャルドには学生時代に触れたのですか」と質問し、黒川は「そう、高校時代に。父親の書斎には建築の本で溢れていた」と答えています。

この黒川とのインタビューは、黒川が1958年にモスクワを訪れたことから始まっています。私はコールハースがソビエト建築や構成主義に影響もしくは参照している可能性が高いことをブログにて度々指摘してきましたが、この黒川とのインタビューにおいてモスクワへの訪問を真っ先に述べたのは非常に示唆的な事のように私は思えます。

このロシアはサンクトペテルブルクの地において、黒川の最後の建築となったこのスタジアムに黒川は宇宙船またはUFOと呼ぶべきかと考えていました。

宇宙船は巨大な「カプセル」と言い換えても差し支えないでしょう。

603658c32d768b118747ae16bb03cf61(写真はネットより)

レオニドフの案を参照したであろうサンクトのロシア正教の尖塔(もしくは黒川の80年代以降の代名詞でもある円錐の暗喩)をこれまた黒川の代名詞でもあった「カプセル」に貫通させた構成は、この地サンクトペテルブルク(当時のレニングラード)において、黒川の建築構成の造形性における原点回帰とも呼べるようなものであったのかもしれません。